何かを犠牲にしていると思わずに、あの人の笑顔を見たいと思えば、ちょっと違った世界が見えるかもしれない

アタマのなか

仕事や家庭のことで時間に追われていると何かを犠牲にしているような気持になることもある。

犠牲にしていると感じるのは、なぜだろう。
将来がイメージできないから?
給料が安いから?
誰かと比べて苦しいから?
自分ばかりが辛く感じるから?
自分の好きなことができないから?

そうやって、思ってしまうことがあるような気がする。
きっと、人は弱い。
だから、弱さを隠そうと強気な言葉をつかったり、
弱い人を傷つけるようなことをするのかもしれない。

何かを犠牲にしているというのは、「自分」が中心の世界にいるからかもしれない。

でも、ちょっと違った見方をしてみても良いのではないだろうか。

これをやったらあの人は喜んでくれるかな?

そんな風に思えると少し頑張れるような気がする。

あまり「自分」ばかりを見ると、内に内に陰に陰にふさぎ込んでしまい、
負の容量がいっぱいなことに気が付かずに、急に暴発することもある。

だから、そうならないために「誰かのためになっている。」と思えるようなことをやってみたらよいのかもしれない。逆に言えば、そうではない仕事、単に搾取されているかもしれないと感じるようになった場合は、関わらない方がよい気がする。

実際、私も搾取されているという意識が出てしまったときは、
今までうまくやっていたことや普通に取り組んでいただことにも猜疑心が働き、
無駄にイライラしたり、つらくなっていた時期があったように思える。

無理をして、心を見失い病に倒れるよりも、
逃げ出す、断るほうがよっぽど良い。

自分がやらなきゃいけない仕事なんて、ほとんどない。
だけど、あなたしかできないこと、あなたを必要としている人は、きっといる。

そんな大事な人のために時間を使えるような意識をもってみると少し世界の見方が変わるかもしれませんね。

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