あだ名を制限する小学校が増えているようで、小学生の娘を持つ親として少し考えてみた。
1)良いあだ名、悪いあだ名
そもそも『あだ名』というのは親しみを込めた『愛称(あいしょう)』と、相手をさげすんだ『蔑称(べっしょう)』の2つのパターンがあると思う。
相手の顔や体の特徴などネガティブな要素を想起させるようなあだ名は、言われて嬉しいはずがない。
こうしたあだ名、つまり悪口と同等の蔑称と愛称の区別もつかないまま『あだ名』として使ってしまい、それが集団のいじめへと発展する可能性もあるのではないかと思ってしまう。
2)言われる相手による
あだ名は、言われても大丈夫な相手とそうではない人がいる。
好意を持っている人には親しみを持ち、苦手な人に対しては嫌悪感を覚えることはある。
そうした状況があるということを認識しておくことが大事で、それを知らないと他の人が言っているから自分も言っても大丈夫という意識になり、相手が嫌がることを平気で言ってしまう状況を作る可能性があると思う。
3)組織や団体でルール化してもよいのだろうか
例えば、会社などでニックネーム制みたいなものをしているのは、拒否しずらい状況と考えると価値観が同じ集団であれば問題ないとは思う。
ただ、これは個人的な意見ではありますが、そうした会社は一見、自由に見えて、異なる価値観を受け入れがたい状態ではないかという気がするので、規模的にも同じ価値観の人を揃えるしかないのでスケールしづらいのではないかという気がする。
4)信頼関係の証?
私自身も中学校から、ずっとあだ名で呼ばれ続けて、愛着が出てくるケースもある。
だからというわけではないけど、あだ名を単に規制してしまうのはよいのだろうかと疑問に思う部分がある。
もちろん悪口に近いあだ名をつけられて、そうしたことがきっかけでいじめに発展することもあるとは思うけど、これは確率の問題のような気もする。結局、あだ名をつけなくても別の方法で、そうした問題はきっと起きる。
今までの人生の中でも仲よくなれば、呼び捨てにすることもあれば、あだ名をつけあって信頼関係を築くこともある。
昔、電気工事をしているとき現場で働いているとき、現場では年齢層もバラバラで、大卒の自分は、ちょっと距離を置かれることが多くて、呼び方も苗字に「さん」付けという感じだったが、仕事を続けていくうちに「〇ちゃん」みたいにみんなから言われるようになり、「あぁ、みんなから認めてもらった」「信頼してもらった」と感じたことを思い出す。
あだ名というのは、そうした信頼関係の証になることもあるような気がしています。
まとめ・考察
個人的には、あだ名を使うことのメリットもあると思うので、使うことを制限するよりも使い方への教育も必要な気がする。結局、小学生の時だけ使い方を制限しても将来、進学や社会に出て、その規制がなくなってしまった時に意味があるのかと疑問に思う。
あまり規制を強化してしまうと単純に「あだ名 = 悪いこと」というイメージになり、親しみを込めた愛称だとしてもすぐに否定的になり、それによって人間関係の構築がうまくできなくならないかという懸念もある。
社会に出れば、いろんな人がいるし、世界を見ればもっといろんな人がいる。
小さな集団で規制を強化するよりも、うまく活用する方法をもっと教えてあげてほしいという気がする。
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